戦国時代
 那須地方のとある村に若い山伏がやってきました。
 これから那須の山で修行をする者ですが今宵一夜の宿を頼めませぬか
 快く迎えた家には若い娘がいました。
 かいがいしく世話をし、翌朝那須の山へ送り出しました。
 数日たちましたが、娘は若い山伏の面影を忘れられません。

 ある日のこと娘は男装をし、あの若い山伏に会おうと、
 ついに北湯付近に忍んでいきました。
 北湯は当時、修験道の修行場であり湯治場で女人禁制でした。
 修験道は役子角を祖とする密教の一派で厳しい戒律がありました。
 何ものであるか やや 女か
 女は別の山伏に見つかり首をはねられてしまいました。
 女の遺体を見つけた若い山伏はあまりのことに泣きに泣きました。
 しばらくしてから女の遺体を埋め塚を作って弔いました。
 さらに、斬った刀は社に納め懇ろに祈祷を施しました。


 徳川時代
 北湯は黒羽藩大関家が治めていました。
 大関家はいわゆる那須衆の一つであり、中世以来の豪族です。
 小田原征伐にも参陣し、秀吉に1万3千石の所領を安堵され、
 関ヶ原の功績で2万石を領するに至り、黒羽藩となりました。
 中世以来の所領を幕末まで全うした、数少ない大名家の一つです。
 その黒羽藩の方針で北湯から山伏はいなくなっていました。
 いつしか女の話は時をこえ風のように伝わるだけで、
 社も朽ち果て保存されていた刀も行方が分からなくなってしまいました。
 ちなみに、大関家が姫の湯治のために新たに建てた湯殿が姫の湯です。
 転じて女の湯目の湯となり現在の芽の湯となりました。


 
明治時代初期
 北湯は初代熊谷源三の時代です。
 新しく温泉館を立てようと整地していると土の中から錆びた刀が出てまいりました。
 源三は驚き恐れました。
 温泉館は建ちましたが、このままではいずれ悪いことが起こるかもしれない。
 そう考えた源三はちょうど刀が出てきた場所の上の部屋に錆びた刀を納め、
 その部屋は開かずの間として封印しました。
 そのおかげか悪いことも起こらず温泉館は繁盛していきました。


 明治40年
 一度開かずの間の壁が落石で崩れたときがあります。
 当時の館主はすぐに修理をし、山伏をよんで祈祷をしてもらいました。
 おかげで温泉館の繁盛は続きました。


 
昭和13年
 那須地方を嵐が襲いました。
 大洪水となり建物が崩れ、開かずの間の錆刀は流されてしまいました。
 復旧作業は困難を極め刀のことは諦めざるを得ませんでした。

 
 昭和60年
 刀が流されてから数十年の月日が流れました。
 現在の館主のお父さんは働き者で丈夫な人でした。
 ある時病になりましたが思ったより症状が重く、
 長く床に伏す
こととなりました。
 ある夜夢の中に女と錆びた刀が出てきました。
 女は切々と自分が死んだ事情、
 自分の魂と刀の運命を語りました。
 どうかもう一度供養をして下さい。
 あまりに哀れな話
 館主のお父さんは夢に出てきた女の絵を描き、
 祈祷師を呼んで祈祷をしてもらいました。
 絵とお供え物を余笹川に流し、手厚く供養いたしました。
 その後、館主の病は急速に癒え、
 北湯も繁盛を続けています。

 400年の時をこえた悲しい物語、
 これが開かずの間の錆刀のお話です。

相の湯・泳ぎ湯への階段

ちょうどこの辺りが錆刀が出てきた所

この上に開かずの間がありました